街は人が作り、人は街に作られる / 木瀬 公二
例えば、杉並木を切ろうじゃないか、という話がでる。
並木は、何の役に立っているのか。下に住む人は太陽を浴びることもなくジメジメし、風も通らぬ劣悪な環境である。人間的生活を送るためには、切るのが当然であるーーという論理である。
だが、何かの役に立たなければ、存在することが許されないというように考えていいのだろうか。もし、そうであるならば、「自分は何で生きているのか」という問いに答えが出せない人は、自殺しなければならなくなってしまう。そんなことは、絶対にないのである。
邪魔だから切ってしまおう、というのは、強者の論理である。そういう目でしかものを見られなかったり、感じられなくなると、危機だといっていい。残念ながらいま、強者ばかりが増え、邪魔なものはどんどん捨てられている。むしろ、必要なものを邪魔だと勘違いしている人が増えていると、言い換えたほうがいいかも知れない。
勘違いは、文明によってもたらされた。電気がつき、オバケがいなくなった。かつて、巨大なシカは神であった。全長十数メートルもあるイカも、神だったに違いない。人間の想像を絶するもの、畏敬の念を抱かせるものはすべて崇められ、人はその前にひれ伏した。木にも山にも水の中にも、神はいた。
それがいま、世界最大のイカはダイオウイカで体長は約18メートルで~~と科学的解明が進み、神々はどんどん減っていった。その分、いかがわしい神が増えてきた。
遠野郷にはまだ、まともな神が多くいる。人々と一緒に暮らしている。身近にいるお年寄りたちは、自分に災難があったとき「何かいけないことをしたから神様に罰を当てられたんだ」と思い、それは何だったかと自分を振り返る。山の作業員たちは木を切り倒すとき、木の根元にお神酒を置き塩を供え、命をいただくことへの感謝と作業の安全を祈る。要するに神様は、人々を謙虚にする。遠野の人々は、そうやって暮らしてきた。郷土芸能を演じ、石碑を建てることも、その流れの中にある。
それらを文化と呼ぶ。文明だけがあり、文化のない街は無機質で人の匂いを感じさせない。遠野郷には、人の匂いが漂っている。
全国町並み保存連合機関誌 「町並み/創刊号(昭和63年)」への寄稿の一部を改訂。
木瀬 公二(遠野文化研究センター研究員)