遠野郷八幡宮例祭に息づく南部直栄の想い / 多田宜史

今年も遠野まつりが終わった。一粒の雨に当たることもなく、大きな盛り上がりのうちに終えることができたのは、ひとえに皆様の協力の賜物である。心より感謝申し上げたい。

さて、これこそが遠野のDNAだといえるほど遠野市民の体に深く刻まれている遠野まつりだが、その原点を知るものは意外と少ないように感じる。当神社の例祭が現在の形になったのは1661年のことである(注1)。八戸から村替えになった南部直栄が、光興寺にあった八幡神社(現在の元八幡宮)を現在地に遷宮して馬場を造営し、流鏑馬を奉納させたのが始まりだ。なんといってもこの馬場こそが、八幡宮例祭の大きな特色なのである。

当神社の馬場は南端の直線が220mあり、流鏑馬の定法に従って造営されている。しかしながら、単なる馬場ではない。実はこのような広大な芝生馬場は全国でも二か所しかないが、もう一か所が島根県鹿足郡津和野町に鎮座する鷲原八幡宮である。この馬場と比べるとその特徴が良くわかる。鷲原八幡宮の馬場は鎌倉の鶴岡八幡宮の馬場に倣って造営されたと言われているもので、馬場の中央に土手を設け、そこに的を立てて矢を射かけ、馬が土手を廻るようになっている(注2)。盛岡八幡宮の「流鏑馬古図」を見ても中央に土手を設けていることが見て取れるため、おそらく全国的に同様であっただろう。しかしながら当神社では南端に土手を設け、中央は広場とし、その広場を廻るように造営してある。つまり人が大勢集まることを想定して設計されているのである。

ここに、馬場を造営した南部直栄の想いを読み取ることができる。当時の遠野は前統治者の阿曽沼氏が失脚し、治安が非常に悪かった。それを解消するために直栄が目を付けたのが「お祭り」なのである。前述のように流鏑馬を奉納させ、そして領民には芸能を奉納させた。領民が一堂に会することにより分け隔てない交流が生まれ、日ごろの不安解消や不満のはけ口となり治安安定に一役買ったのである。また、当神社の流鏑馬は15日の例祭日に馬場めぐりと同日に開催されるが、これも全国的に珍しい。『遠野古事記(1762年著)』には「祭礼毎年九月十五日に御定、(中略)毎年祭礼には馬場を御廻り被レ成候(おめぐりなられそうろう)」と書かれており、当時より15日に馬場をめぐっていたことが伺える(注3)。通常、流鏑馬は16日つまり例祭の後に執り行われることが多い。流鏑馬の総本家とも言える鶴岡八幡宮でも16日だし、同じ南部氏の盛岡八幡宮もしかりだ。しかしながら当神社では、神様にとって最も重要な例祭日である15日に、流鏑馬と馬場めぐりを連綿と執り行ってきたのである。

祭りの根幹は「神人和楽(しんじんわらく)」。神様だけが楽しむのでもなく、人だけが楽しむのでもない。神と人が和やかに楽しむことこそが「まつり」なのだ。幸いにも当神社には、神も人も集まることができるだけの広大な馬場がある。その幸運に私たちは感謝しなければならない。

せっかく馬場の話になったので、今皆さんが当たり前のように目にしている遠野南部流鏑馬が、いかに貴重で後世に伝えるべきものであるかを述べておきたい。

遠野南部流鏑馬の歴史をひも解くと、1335年に遠野南部4代南部師行が、盛岡南部氏失権に伴い南部一宮である八戸の櫛引八幡宮の祭典を主管するようになり、鶴岡八幡宮に倣って流鏑馬を奉納したのを創始とする。その後盛岡南部氏が復活して櫛引八幡宮の祭典を主催するようになった後も「流鏑馬は貴家の創始のため、今後も遠野南部氏で行うように」と譲られ、遠野南部氏が八戸から遠野へ村替えになった後も、盛岡南部氏から「櫛引八幡宮の流鏑馬だけは貴家で行うように」と重ねて譲られたため、わざわざ遠野から八戸まで出向いて奉納したのである。この故実が現代まで受け継がれ、旧暦8月15日の櫛引八幡宮の例祭には、今でも遠野南部流鏑馬保存会の手により流鏑馬が奉納されている。盛岡八幡宮の流鏑馬は、実は1681年に盛岡八幡宮が創建されてからの奉納であり、つまり、歴史的にみれば南部流鏑馬は遠野南部氏が本家格なのだ(注4)。

南部流鏑馬は他の流鏑馬にない大きな特徴を持つ。それが介添奉行である。皆さんも射手奉行が的を射終わった後に、介添奉行が「よう射たりや~!!」と言いながら後を追いかけるのを見たことがあるだろう。本来介添奉行は世話係で人前に出るものではないが、昔「橘左近」という18歳の若者が射手の大役を拝命し、これを心配した祖父が介添え役を申し出たところ、本番、左近は三つの的全てを射抜き、あまりの嬉しさに「よく射った、よく射った」と連呼してその後を追ったのを吉例として作法として定まったと伝えられる(注5)。介添え奉行だけでなく、この他にも南部独特の作法を伝承しているが、このように作法としての流鏑馬を伝承しているのは南部のほかに、なんと小笠原・武田の二流派しかない。小笠原・武田といえば流鏑馬の名家として聞こえるが、実は南部流鏑馬も比べるに遜色ない伝統と格式をもっているのである。

そのような貴重な遠野南部流鏑馬も近年、馬の調達が難しくなり、射手のなり手も少なくなったことから存亡の危機に瀕している。馬産地遠野と銘打つ以上、流鏑馬の振興は最重要課題なのではなかろうか。市あげての流鏑馬保存伝承活動が活発になることを期待して、筆を置きたい。


注1:『遠野古事記』では1663年と記載されているが、当神社所蔵の棟札には1661年と記載されているのでそれに拠った。
注2:『流鏑馬(霞会館刊)』P34
注3:『遠野古事記(遠野文化研究センター刊)』P178
注4:『遠野郷八幡宮八百年誌(遠野郷八幡宮刊)』P9
注5:『遠野南部流鏑馬記(遠野南部流鏑馬保存会刊)』P27

遠野郷八幡宮 多田宜史