庶民の娯楽(芝居小屋と映画館)その① / 荒田昌典

古くから人々の暮らしに彩を添えるものとして楽しまれてきた「庶民の娯楽」。
時代によって、その内容や種類、数も変化していますが、ここでは遠野の芝居小屋と映画館を紹介します。
明治22(1889)に東京築地に歌舞伎座が完成すると歌舞伎は大評判となり、やがて地方でも芝居が観たいという声が高まります。次第に全国各地に芝居小屋が建てられるようになると、地方を興行して回る旅芸人一座も出現しました。そして、明治41(1908)、ついに遠野にも芝居小屋が建てられます。しかも二つも。砂場町(現在の新町)の多賀神社の向かいに「多賀座」、新屋敷町(現在の中央通り、宮本眼科向い辺り)には「吉野座」が開設。


吉野座での歌舞伎公演の記事(白龍新聞:大正12年3月10日号)

どちらの小屋にも旅芸人の一座が回ってきて、芝居が上演され、多くの人が詰めかけて楽しんだようです。多賀座の落成時の記念写真には、紅白幕を張り、建物正面や二階にもたくさんの人が写っています。
多賀座では、よく「国定忠治」や「忠臣蔵」、仙台藩の伊達騒動を芝居にした「仙台萩」、蝦蟇(がま)を使った妖術を駆使して権力に立ち向かったり盗賊として活躍した「児雷也」などが上演されました。冬期間は、木戸銭の他に火鉢の料金も払って桟敷席で手をあぶりながらの芝居見物でした。

当時の様子が『遠野町古跡残影』(平成4年刊行)に次のように紹介されています。「遠野には古くから芝居や遊芸が盛んで、二つの劇場があった。多賀座と吉野座で、開演の当日は、人力車に出演者の名前を染め抜いたのぼり旗を立て、角太鼓をひざに置き、ダダンダンと打ち鳴らし、街路の中央を流して走ったものだ」と。旅の一座の興行期間は一週間ほどで、終了後はすぐ次の小屋へと移っていきました。芸人一座は、芝居を専門に演じる一座や踊りや民謡、浪曲、講談などを得意とする一座など多種多様でした。一座は入れ替り立ち替り回って来ていましたが、各地の小屋の数が増えていったため上演できない日もありました。

白龍新聞に掲載された広告(大正11年11月10日号)

多賀座の収容人数は800(桟敷席)で、当時それくらい大きな建物は無かったので、地元の演芸会や講演会など様々な催しにも利用されました。大正12(1923)56日、上閉伊郡内の80歳以上の高齢者549名を多賀座に招待して敬老会が開催されたという記録が残っています。また、大正147月には、吉野座で遠野で初めてのラジオ試聴会が開催されました。このことから、大正時代に遠野の一般家庭にはまだラジオが入っていなかったことが分かります。
昭和の時代に入ると、遠野でも無声映画が上映されるようになります。動いている写真、ということから活動写真と呼ばれ、「カツドウ」と親しまれました。スクリーンの中で動いている人、珍しい風景、外国の街や人も出てきて、初めて無声映画を見た人は大変驚いたことでしょう。

日本では昭和9年(1934)に公開された活動写真。伴奏音楽と音響が入ったサイレント版。日本初上映の活動弁士は徳川夢声が務めた。

スクリーンの脇には弁士が立ち、登場人物のセリフやストーリーを面白おかしく話します。さらに、場面ごとの効果音や音楽を数人で演奏する楽団もいました。戦前、多賀座で無声映画が上映される時には、当時あまり普及していなかった自動車に楽団員が乗り、クラリネットやアコーデオンで音楽を鳴らし、窓から「活動写真やるから見に来てください」と言いチラシを撒きながら街中を宣伝して走りました。
映画の魅力に人々はすっかり引き込まれ、上映日には大勢の人が詰めかけ、人の頭でスクリーンが見えないほどだったとか。 (つづく)