庶民の娯楽(芝居小屋と映画館)その② / 荒田昌典

昭和10(1935)頃には仲町(現在の中央通り、遠野郵便局の場所)に「遠野公会館」が開設します。

遠野公会館

この建物は、歌舞伎座のように造って欲しいと建築主から依頼を受けた千葉熊五郎棟梁が、上京して歌舞伎座(当時の建物は、大正13年~昭和20年に使用された第三期のもの)を隈なく見て回り、遠野に帰って幾度も検討を重ねて建設しました。完成した建物は、歌舞伎座のように立派なものだった、と当時を知る人は口を揃えます。遠野公会館の収容人数は1,300人で、戦前は無声映画を、戦後は本格的な映画の上映館として多くの観客を集めました。

多賀座と公会館の映画広告
(上閉伊新聞:昭和28年2月2日号)

 

昭和27年(1952)に日本で公開。アメリカでは昭和14年(1939)に公開され第12回アカデミー賞を受賞。戦争のため日本公開まで13年を要した。

映画を上映しない日には、「憧れのハワイ航路」などの人気歌手・岡晴夫や「湯の町エレジー」の近江俊郎の歌謡ショーや踊りの公演なども行われたほか、町の芸能祭の会場となるなど大いに賑わいました。しかし、昭和28年(195312月、火災により焼失。この公会館が完成する前に吉野座は閉館していたため、一時期、映画の上映館は多賀座一館だけになります。昭和29年以降は、中央通り(吉野座の跡地)に「遠野ホール」、仲町(現在の中央通り、日本生命保険会社の場所)には「中央映画劇場(中劇)」が開設したほか、昭和33年には新穀町(現在の遠野歯科クリニック他の場所)に「遠野東映」がオープンし、まさに遠野の映画の全盛期を迎えます。

昭和29年(1954)日本公開「ローマの休日」。
オードリー・ヘプバーンは新人ながらこの作品でアカデミー賞最優秀主演女優賞受賞

 

中劇・ホール・東映の映画案内(上閉伊新聞:昭和38年10月号)

日活や東宝の映画を上映した中劇では、特に石原裕次郎の映画が人気で、松竹や大映の映画を上映した遠野ホールでは、「君の名は」などが大ヒットし、東映や新東宝を上映した遠野東映には大川橋蔵や美空ひばりのファンが詰めかけました。当時の映画館は入れ替え制ではなく、全席自由席で、上映本数も二本立て三本立てが当たり前でした。開館中は入退場自由でしたが、全盛期は通路や最後方で立って見なければならないほど混みあい、映画が一本終わって席を立つ人がいると空席となった席を競って確保しました。映画の人気が最高潮になると、映画館だけではなく、各地の公民館やお祭り、イベント会場などでも上映されようになります。大工町のお祭り(加茂神社の宵宮)では、旧雪印工場前の広場(現在の東北電力遠野営業所の場所)で、そして九重沢のお不動さんのお祭りには旧青果市場の広場(現在の中央通り、すずらん理容所や神具一位辺り)で無料の映画会が開かれ、臨時に設置されたスクリーンに多くの人が魅入りました。また、市内の附馬牛町の楽知館(不定期の上映館)や上郷町をはじめ、宮守村や小国村、住田町など県内各地のイベントや映画会などへの映写技師の派遣依頼が頻繁にあり、中劇や東映では45人の映写技師を抱えていたほどでした。しかし、やがて映画が庶民の娯楽の主役の座から降りる日も近づいていました。

昭和33年にNHK盛岡テレビジョン局が開局し、翌年には岩手放送テレビジョンも開局。そして昭和39(1964)9月にNHK盛岡放送局がカラーテレビ放送を開始し、翌月には東京オリンピックが開催されました。この世紀の一大イベントに合わせて各家庭にテレビが入ります。文字通り、居ながらにして映像を見て、世界を知ることになりました。テレビの隆盛は、映画の衰退につながり、昭和30年代末に多賀座が閉館し、昭和40年代前半に中央映画劇場と遠野ホールも相次いで閉館。ただ一館残っていた遠野東映も昭和58(1983)に閉館。最後の上映作品は、高倉健主演の「南極物語」でした。こうして、遠野から芝居小屋と映画館は姿を消してしまいましたが、芝居好きの人は上京して劇場や歌舞伎座などで鑑賞しています。映画ファンも盛岡や北上の映画館に足を運び、またはレンタルビデオを借り、さらにはテレビ放送される映画を楽しんでいます。今後もスタイルは変わっても、芝居や映画は庶民の娯楽であり続けることでしょう。

腹を抱えて笑ったり、いつのまにか頬を涙が伝っていたり……映画にはいつも感動があります。

昭和58年公開。第1回ゴールデングロス賞最優秀金賞受賞作品

今回のテーマをまとめるにあたり、ご教示いただきました方々にお礼申し上げます。

このテーマに関して情報をお持ちの方は遠野文化友の会ホームページの連絡先か遠野文化研究センターまでご連絡をお願いします。

遠野文化友の会会長 荒田 昌典

 

昭和57年公開。第35回サレルノ国際映画祭グランプリ受賞。監督:村野鐵太郎。遠野を舞台に撮影され、市民も多数参加協力した。この映画が縁となり遠野市とイタリア・サレルノ市は昭和59年に姉妹都市締結する。岩手放送開局30周年を記念して制作されたもの。

【補足1】

遠野の映画文化の発展に寄与した佐藤文治・和彦親子の紹介。

明治34(1901)、六日町に生まれた文治は、大正時代中頃に上京して日本活動寫眞株式会社(昭和20年に日活株式会社に社名変更)に入社。都市部を中心に建設された会社直営映画館の支配人として各地を転勤していたが、戦争が激しくなった昭和18(1943)に静岡県沼津市から郷里の遠野へ家族を連れて疎開。この時、昭和8年生まれの和彦は10歳。疎開後間も無く、文治は手腕を買われ遠野公会館の支配人となる。特にも戦後、疲弊し娯楽を求めていた人々に映画を始め歌や踊りのショーなどを提供し活躍。昭和25(1950)には公会館の支配人を辞し、県内各地からの要請に応えて「映画会」を開催して歩く。映写技師など数人のスタッフで県内を回ったが、どの会場も大入り満員だったという。昭和298月、仲町に中央映画劇場(中劇)が開設されると同時に支配人に就任。古巣の日活映画を同館で上映する流れを作る。翌年の秋頃、中劇を辞め、その頃年に数回しか芝居が上演されておらず映画にシフトしていた多賀座を借りて本格的に映画館としてスタートさせる。

文治の長男の和彦は、この頃から父親の仕事を手伝いながら映写技術をはじめ様々な映画の仕事を覚える。しかし、昭和3110月、文治55歳で死去。和彦は父の跡を継ぎ多賀座での上映を続ける。昭和33(1958)6月、遠野駅前の新穀町に遠野東映が開設。建築主からの要請で和彦は同館の支配人となる。25歳で東映の支配人となった和彦は、上映作品の主演俳優や題名入りの大看板を制作して劇場の壁面に取り付けたり、映画のチラシを新聞折込にしたりと次々に新しい集客活動を展開して人々を映画館に惹きつけていった。昭和30年代後半からテレビが普及し始め、その後も続々登場した庶民の娯楽の影響を受け、昭和40年代前半に中央映画劇場と遠野ホールが相次いで閉館。街中の映画館が減少したことに加えて、テレビで映画が放送されたり、レンタルビデオ等で気軽に映画を楽しめるようになると、映画館離れはさらに加速していった。

そして、父子二代にわたる映画への深い愛情と映画人としての自負によって何とか持ちこたえていた遠野唯一の映画館「遠野東映」も昭和58(1983)、ついに閉館の時を迎える。

佐藤和彦さん

聞き取り調査のためご自宅を訪問した際のひとコマ。
奥さんが傍らで「この人は根っからの映画好きだったから、お客さんの数が少なくなっても、なかなか閉める決断ができなかったんですよ」と語り、それをニコニコしながら聞いていた和彦さん。

佐藤文治・和彦親子が映画とともに歩んできた人生は、はたして波乱万丈?はたまたハッピーエンド?和彦さんの温かな眼差しからは、充実した日々を送ってこられたことが窺われた。

【補足2】

遠野に多賀座と吉野座が開設された明治時代の様子が、鈴木吉十郎編『遠野小誌』(明治43815日発行)の「劇場」の項目に、次ように記されている。

「遠野町に古来劇場なし。演劇を催すとあれば寺院あるいは野外に假(かり)舞台を構ひて興行するのみ。故に風雨に遭うときは順延するを常となす。甞(かつ)て一日市町に假劇場ありて多年の間興行せしが、構造固(もと)より適せざるを以て其筋の允(ゆる)さざる所となれり。明治416月劇場二ヶ所一時に成る。一は砂場丁にあり多賀座といひ 一は新屋敷丁にあり吉野座といふ。其構造両座略々相似たり 桟敷を数段に区分し内外の結構観るべし。」

「男はつらいよ」シリーズは全48作としてギネス世界記録に認定されている。
この[特別篇]は1996年に死去した渥美清・寅さん人気に応える形で制作された49作目。
本シリーズは、映画ファンにたくさんの笑いと涙と愛情を与えた邦画の名作。