「ストーンウォーズ・エピソード-1」その1/多田欣也

ストーンウォーズ 

 私の育った石倉は中央通りとの境、商店街とも違うのですが、市役所も営林署も近く、近所に病院が3軒、歯科医院が一軒あるという静かな町でした。60歳を過ぎてしまうと少年時代のことが50年前という、恐ろしい事実に気が付いてしまいました。思い起こせば子供のころは毎日のように親に叱られて泣き、兄弟げんかをしては末っ子の私は負けて泣き、ガキ大将にはお調子者でヘコヘコついて回り、いたずらや悪さをしては近所のおばさんたちに怒られ、日々是戦いなのでありました。遠野の文化とは程遠い話になりますが、在庫の話のあるうちお付き合いください。

 エピソード-1

 遠野の町に二つあった小学校の新しいほうの東小学校に入るころ家の向かいには山田医院が開業していました、その左隣に最初はサンメイの運送屋でした。そのうち武蔵貨物になりましたが、その緑色の大きなトラックがぎりぎり通れるくらいの狭い砂利道が、今は国道の十字路からまっすぐ来内川の物見橋まで伸びていました。その運送会社の隣は遠野青果市場、乾燥場と呼んでいたお化け屋敷のような大きな廃工場がありました。そのあたりの話はまたあとにしましょう。

 向かいの山田医院の数件右に浅沼さんのうどん屋さん、近所では「エキサン」と呼び、たぶんお父さんか誰かの名前だと思いますが、みんなそう呼んでいました。近くに自宅兼工場もありましたが、そこの店の奥でもいつも大きな鉄のわっかがベルトでゴトゴト言わせながら回っていました。いつも私は母親に言いつけられ嫌々お使いに行っていました。なかなかあかないガラス戸を開け「もうし」と何度もいうと、その工場の方からうどんの粉で真っ白になった前掛けをほろいながらおばあさんが出てきます。シナソバもソバもウドンも作って販売しています、ここで直接小売りしてくれるので安かったと思います。そして私が買いに行くと必ずそのおばあさんは(もしかすると当時おばあさんというほど年は取っていなかったかもしれません、ごめんなさい)ガサゴソ平らな箱からウドンを取り出し粉をふるいながら新聞紙でくるみ、そして「おめはんが食べんだよ」と言って、必ず一玉おまけににくれました。これは母や兄が行ってもくれるわけでなく、かわいい私だけがもらえるおまけなのでした、これをちゃんと知っている母は、エキサンに買い物があるときは必ず私に行かせるのでした。

 そのすぐ右にはエキサンの息子さんが床屋を開き、さらにその続きに猟友会の事務所、その細長い建物はアンベさんの肉屋さんになり、国道との十字路になるのでした。肉屋さんももちろんお使いは私です、夕方になると店の奥はジンギスカンの食堂になっていたので、その焼いた煙が道路までモウモウと流れてきます、裏口からは酔っ払いが出てきては、向かいの佐々木医院の塀に立小便をするので、臭くて汚くて、とても嫌だったと子供ながら思っていました。アンベさんは遠野のジンギスカンの元祖です、私が生まれた昭和30年ころが、その始まりだと思います。そのころからとてもはやっていました、遠野で焼き肉を食べるというのはジンギスカン鍋を食べるということそれはこの店から始まったのです。新鮮な羊肉だけでなく特にタレがおいしいと人気です。青果市場と乾燥場の間に豚を入れる大きな繭のような金網がいくつもありました。我々近所の子供は市場の裏には近づきませんでした。朝早くアンベさんのお父さんが大きな豚を追って歩いて来るのを見かけることがあり、豚が怖くて近寄れませんでした。豚は近所でも飼っている人が多く、家畜のいない我が家には毎日のように「ジョウミズ」と呼んでいた残飯をもらいに来る人がいました、それは昭和の戦争が終わってまだ20年たっていないころのことでした。

『昭和40年代の上一日市』七夕の様子、左上に「じんぎすかん鍋」の文字
「昭和40年代の穀町」七夕の様子

「ストーンウォーズ」エピソード-2へ続く。