大好きな街で、神楽を舞うということ。/ 押野緑

岩手の郷土芸能にハマって、ほぼ毎週末を岩手で過ごすようになってもうすぐ3年になる。郷土芸能だけでなく、岩手の自然や風土、暮らしそのものが好きだ。「生まれたかった場所」―そう思っている。普段は仙台でライターとして仕事をしている。北上の鬼剣舞、奥州や花巻の鹿踊りや神楽を見に通ううちに、遠野で過ごす時間が多くなった。三陸道で宮守を過ぎ、左手に見えてくる街の景色がとても好きだ。

岩手に限らないが、郷土芸能を見に行くと後継者不足、担い手がおらず中断したという話をよく聞く。一昨年の遠野まつりの時には、パレードを隣で見ていた地元のお年寄りが「昔よりも見に来る人もやる人も減って寂しい」とおっしゃっていた。もし自分で役に立てるのなら…と思ったが、郷土芸能はその土地の人々のもの。祈りとして、またその土地の恵みへの感謝として在るもので、ほかの場所で暮らす私がやるのは違うのではないかと思っていた。

そう思いつつ、体験できる機会があれば様々な芸能のワークショップに参加していた。そうなれば、もうこの沼から抜けられるはずがない。ある共演会を見て「鶏舞と権現舞を覚えたい」と思ってしまい、外の人間を受け入れてくれるところはどこかと遠野の友人たちに相談。そして「神楽がやりたいです!」と連絡を入れたのは、以前から友人がおり、練習を見学(という名の練習参加)させていただいたこともある、土淵の飯豊神楽さんだった。

遠野まつりが近づいた9月から、土日の練習に混ぜていただき「スガク」を覚えた。神楽の基本が詰まっており、最初に覚える舞いだそうだ。「お母さんの練習について来る子どもたちも、真似しながら覚えるんだよ」と保存会会長はおっしゃったが、手足の動き、扇や刀の扱いひとつ取っても、地元に郷土芸能がない場所で生まれた私には未知の世界。練習は合計5日間。友人の「初めてやったのに踊れている」という褒めて育てる作戦と、所作を教えてくれた保存会の方々のおかげで何とか形になり、あとは門打ちをたくさんやれば大丈夫!とまつりに出していただけることになった。

会長が用意してくださった私の装束は、飯豊神楽が復活した初期の頃のものだそうだ。朝7時半に飯豊公民館に行くと、会長の奥様が着付けをしてくださった。「飯豊神楽を踊ってくれることが嬉しくて」と言っていただき、胸が詰まった。飯豊神楽は今でこそ女性の舞い手が多いが、実はこの方こそ初代の神楽女子。それまで男性にしか許されていなかった神楽を、彼女が願い出たことから女性の舞い手が生まれた。

背中に幣束を差し、鉢巻きを締め、マイクロバスに乗って街へ。郷土芸能パレードの時間まで街のなかを門打ちして歩いた。人前での最初の舞いは、緊張する間もなくあっという間に始まった。遠野まつりの2日間で一体何十回踊っただろうか。舞えることが、ただただ嬉しかった。それほど人口の多い街ではないから、互いの顔を見知っているのだろう。「何だか見たことのない人がいるな」という顔で見てくださる方もいた。何よりも嬉しかったのは、店舗の前に椅子を出して待っていてくれたお年寄りたちと遠野病院の入院患者さんたち。彼ら彼女らにとっては地元の芸能は、小さい頃から慣れ親しんだ大切なものだろう。だから出来るだけ丁寧に、少しでも上手く、心をこめて舞わせていただいた。その笑顔と拍手がこんなに嬉しいとは思ってもみなかった。

「飯豊神楽移動バス内」撮影:押野緑 2019/09/21

そして夜まで街を回り、郷土芸能パレードと郷土芸能共演会をこなすうちに、遠野はいつも観光で訪ねる街から、自分の街になっていった。共演会では「スガク」だけ踊ってあとは待機。次の演目の間だけ権現様を預からせていただいた。そうして欲しいと言っているような気がしたから、みんなの舞いが見えるように持つ。遠野に来るといつも感じている八百万の神様の気配が、確かに私の腕のなかにあった。

2日目は遠野郷八幡宮の馬場めぐり。いつも遠野に行くたびにご挨拶に行く神社本殿前に立ち、神様に伝えたのはただ感謝の言葉のみ。受け入れてくださった飯豊神楽の皆さま、舞っているところへ声をかけてくださった遠野の友人たち、郷土芸能ファンの友人たち、本当にありがとうございました。来年はもうひとつ上の「くずし」も踊ります。

 

「飯豊神楽馬場巡り」 撮影:田村雅隆 2019/09/22

叶えたいことが3つある。ひとつは「岩手の郷土芸能を(団体に属して)やること」。続けるためには、やはりこの街か近くに住まなければ難しいだろうと思う。遠野が好きだ。ここにある暮らしや文化、何よりそこで暮らす人々が好きだ。だから次は、2つめの願いを叶える番だ。

「飯豊神楽権現舞」 撮影:佐々木昌広 2019/09/22