自分を見届ける「歴史考証」~遠野との出会いと変化~ /恩田博世
遠野と私の暮らしの始まり…。 私が遠野とどうやって結び付いたのかを、先ず最初に読む方にお知らせしようと思う。
娘とパートナーが、どう言うつながりからだったか深くは知らないが、遠野で、2016年に起業した人とのつながりが生じたことで、 遠野で暮らす人生が拡がり始めたようだった。
遠野の拠点を構築するために、古い家屋に住み込んで暮らしを始めたい、 と考えていたようだから、従って多大な大工仕事が必要だったのだろう…。
私はといえば、船大工をやっていて木造ヨットの建造を主たる生業としていた、とは言え身体的な条件の悪化で造船業を続ける体力を失いかけていた時分であった…。
そんな私に古い民家の改善工事をして欲しいと、娘たちからお話が転がり込んで来てと。
これが導入部だ。 遠野と言われると、『遠野物語』と「かっぱ」の話題をかすかに知るだけ、と同時に岩手県の印象は、「日本のチベット」 そんな嘲笑的な表現を小学校の教育で聴かされていた。考えてみると時代背景からであったが失礼な言い方だと思うが。
だがしかし、岩手県は経済的には極低温の中で生産力の低い貧しい県であったのは間違いないだろう。工業は余りなかったのだ、主な産業は炭焼き、農業では、寒冷地でも育つ稲の品種改良により、渇望していた主食が満足に手に入れられる時代へと進んだのだろう。小学校の教科書には、これらの情報が教科として記載されていた。
そして、岩手県を知らしめた大きな影響は、宮沢賢治の存在だ、「…そういう人に 私はなりたい。」これは、私にとってセンセーショナルな響きであった。『セロ弾きのゴーシュ』は『ピーターと狼』によく似ていた、『銀河鉄道』は『星の王子様』と混同して記憶している。彼は科学者だったのだろう。
2016年の秋も深い冬直前、小友町の蒻沢(こごみざわ)にある古民家に住み込み改築作業を始めた、仕切りのないだだっ広い部屋は寒過ぎるし、 給湯設備は壊れている、水道は供給がストップされている、電気も来ていない…。そこに住み込んで作業開始。プロパン業者とつながりが出来て、最初の一言は「ここで住むのはやめた方が良いよ」「冬になれば凍り付いて住めたものじゃない」 「この古い家よりは、プレハブの納屋の方がまだましだよ!」散散な言われ方をした。
作業を始めて間もなく、ある日ご近所の方が訪ね来られた…。「貴方は、ここに住んでいるのかあねぇ~?」から、 地元の人との初めての会話が始まった。引っ越しの挨拶は、手拭いとかを持って此方からご挨拶…。それが都会では普通だが、ここでは先制攻撃された気分だった。その後、集落の人々が寄り集まっての歓迎会に招かれた。これも都会では考えられない出来事だった。 更に、「御祝い」を参集した皆さんがこともなげに朗詠してくれた。これには不思議な感動で涙があふれた。 この後別の寄り合いで、遠野市の成り立ちを教えて戴いた。
沿岸部と内陸部との交易の街である、それは太古の時代からもしかしたら始まっていたのか、 長い年月、人々を迎え入れ、そして送り出すことがこの街の宿命で、それが現代にまで受け継がれているのかも知れない。 ある方が「遠野の人は、北海道から中部近畿辺りまでの方言は理解出来る」と仰っていたのが印象的だ。そしてここ小友町も全く同様だったと思える。
それは、江戸時代からここだけに多くの金山が発見されたことによる。巌龍神社の周辺には旅籠が数軒あって、昔は賑わっていたそうだ。 金山の人工が多く集まり、金鉱脈を掘り当てて財を成したいと、多くの人々が集まったようだ。だからここ小友町でも、人々を全国から受け入れ、そして去って行く人々を送り続けて来たのだった。そんな習性は歴史として受け継がれていたのだろう。だから現代でも、胡散臭い私をも、受け入れてくれたのだと思う。
「東北の歴史が私に響かせてくれたもの」
先日、遠野文化友の会主催の三内丸山遺跡の見学ツアーに参加した。青森県の先端部に1万年前にまで遡れる遺跡の存在は、私にとっては衝撃的だった。それまで縄文時代は未開な野蛮な時代で、文明とは言い難い時代、弥生時代になってはじめて文明らしきものが始まった…。 そんな歴史観を、この遺跡は覆したのだ。農耕が既に縄文時代に始まっていた。 その報道で私は衝撃を受けた。
「歴史教育は過去の古い情報の勉強であって、わざわざ過去に遡って 何の意味がある?」
と思っていた。しかし、現代の科学で改めて過去を見直してみると、それまでの認識をひっくり返してしまうほどの、 新しい情報が展開される…。それに伴って過去の評価が大幅に訂正される…。すると現代の到達点の評価自体が大転換されるのだ。 そうすると、将来への展望も大きく変わってくる可能性があるのだ。だから過去のことを研究することには、多大な収穫が期待される。 5000年からそれ以上前に、縄文時代には、高度な社会が構築されていて、日本から海外にまで広い交易が既に成立していたと言う歴史的な証拠が、示されていたのだ。
岩手県にも同時代の遺跡が発掘されている…。
当時から遠野は交易の拠点だったかも知れない、そんな大昔から遠野人や小友町の人々は、人を招き入れ送り出して来たのかも知れない、そんな風に見直すと、『遠野物語』の時代考証よりもはるかに超えた太古から、この地の歴史は脈々とつながっているのかも知れない、そんなことに気付かされた。東京に長いこと住んで来た中では、気付かされなかっただろう…。自分が住んでいる其処の場所に、実は古くからの歴史的な積み重ねが積もり積もっていることの偉大なことが…。
慌ただしいこの社会の中では、人々は拠点をしょっちゅう引っ越して廻るのが普通になっている。先祖代々が其処に住み現在にまで辿れる境遇は、幸せなことだ、とつくづく思うのだ。 目まぐるしく取って代わってしまう大都会の仕組みには、悲しいかな、日本の歴史を受け継ぎ伝承させる機能は無いと思う。AI、コンピューターやインターネットが発達して最先端を謳歌して、いかにも格好良い外見はあるけれども、そこには太古から受け継がれたものは何一つ無いのだ。表面だけの文明があるだけで、人々の歴史に裏打ちされた、現実の社会の歴史は存在しない…。全部がバーチャルの方向に邁進してはいないだろうか。 70歳を過ぎて、何度もやって来たことだが、自分の生き方を問い返すことを今もやっている。だけど、遠野に来て今まで違った向きに進みそうな気がして、 本気で取り組もうとしている。実生活を全部自前で賄うことで、一度基本に戻そうとやっている。
遠野に来て葛藤の末に辿り着いたのが、「全部基本に戻して、自力で本気で生き抜くこと…」これだ! 故郷は、今もそこにあって、厳然たる存在なのだ!!
歴史考証は不思議で、面白いこと、大事なこと。万葉言葉も当時の発音が復元されている。過去の音声がレコーダーも無いのにどうやって?…。万葉集は文字で言葉が残されている、 しかし当時の音声は残されていない、どうやって復元したのか? 民話の語り部、全国の方言などを分析する中で、音声を復元したのだろう。 三内丸山では昔の食生活が解明された…。それは太古の食物残差が凍結、地中に埋もれて酸化分解されなかったことで、でんぷん類やタンパク成分が分析出来たからだと言う。 また、遺跡の発掘で社会生活が類推され、強大な国家が存在した、とも。
ネアンデルタール人は、昔は人類の進化の流れに含まれていたけど、今は別系統で絶滅した種と断定している。私が学んだ頃は60万年前の祖先、そこから北京原人やホモサピエンスへと進化した…。 そんな教育を受けていた。そして姿勢はチンパンジーからのつながりで前屈みだったと…。だけど後の研究でこの個体が脊椎カリエスに罹患しての前屈姿勢だったと。 そんな人類の祖先だと教えられたのだけど、その後人類の祖先は450万年前にまで遡ることになった。歴史とは現代人が正確に過去を認識することのために、圧倒的な勢いで覆されることが当たり前になった。
遠野は、民話と古い方言の宝庫だ、そして人々の営みの中に古い昔からの習わしが現代に伝わっている、ここから歴史考証は研鑽され、一層真理に辿り着くことの出来る現場だと思う…。古い村落、次々と限界集落として廃れ閉鎖されるのかも知れない…。
でも、ここには豊富な歴史が、太古から営々と連なる言い伝えや古物が存在するのだ~! これらを受け継がないで、どうするのか?これらを打ち捨てて 日本の将来は無いのだよ!
上蒻沢橋、私の住まいに行くための立派な橋がある、でも昔は木造の橋、氾濫のたびに流されたという…。その橋を支えるために一人の村人が流され死亡した。古い市の文献では台風で小友川が氾濫して死者発生の記述があった、橋のたもとには水車小屋があったなど、地元の人のお話は豊富な過去の事実を語ってくれる。
こともなげに 昔のお話をしてくれる…。ここの人々には、語れる確固とした歴史が宿っているのだなぁ~。とても羨ましく思うのだ。 私の過去は、今は何んなのだろう、と思い返すこと…。遠野の里に居ついた今だからそれが出来る気がする、自分自身の歴史考証だ! ここが、私にとって、ニュートラルな「居場所」。
この他、自然農、自給自足、人生の終焉のやりかた…。
色々教わること大なり~(笑)