【編集部より】金田一勝太郎さん、久子さん:友の会会員インタビュー

金田一勝太郎さん、久子さん:会員インタビュー

金田一勝太郎さんは、昭和7年新屋敷町(現在の東館町、穀町の辺り)生まれ。遡ると、先祖は南部家と共に八戸から移り住んできた士族だそうだ。父親は待月の料理人で、仲町へ移り住んだあと、料理人として働く傍ら、現住所の場で旅人を相手に金田一旅館として旅籠屋も営んでいた。

中学校、高校が旧制から新制へ変わる過渡期に学生時代を過ごしたという。
勝太郎さんの世代が最後の旧体制だったことで、「俺たちは落第するんじゃないか」「後輩たちは共学で羨ましいなあ」と当時は同窓生と語り合っていたそうだ。

高校卒業後は視野を広げようと東京の世田谷と渋谷の間に位置していた井上モータース工場にて自動車整備士として働き始める。
当時の自動車はまだボンネット付きの3輪自動車が主で、自動車は人を運ぶものというよりは貨物を運ぶためのものであった。エンジンも今とは違い、炭とガスによる熱で駆動し、一度エンジンをかけるには相当な慣れを必要としていたという。また、整備士としての仕事も現在とは違い、部品一つ一つの加工を行い、各部署でそれぞれ部品の製作も行っていた、と語る。

このとき、勝太郎さんには東京で洋服の生地を作る仕事をしていたお姉さんがおり、お姉さんの紹介もあってその職場で働いていた3歳年下の久子さんと出会う。

自動車整備士としての技能と資格を得た後、22才頃遠野へ戻り、仲町の実家で金田一自動車工場を設立。当時の遠野には菊池自工、共栄自工、サンメイ貨物、小井口自工、奥島自工などの自動車整備工場があった。遠野の自動車整備工場の中では菊池自工がもっとも古く、それは元々がつる鍛治屋であったことが由来であると言う。そんな中、勝太郎さんも自動車整備を本格的に営み始める。

26歳の頃、離れて暮らしていた久子さんも遠野へ来ることとなり、めでたく結婚。
久子さんも自動車工場で共に働くようになる。

当時はアスファルトで整備された道路なども遠野にはなかったため、多くの人が行き交い様々なお店で賑わう街中で整備工場を営んでいたが、駐車場の不足の問題や徐々に整い始めた制度などのため、それぞれ自動車整備会社は遠野町郊外へ工場を移すことを余儀なくされる。
金田一さんの工場も例外ではなく、しばらくの間土地を探した後、現在の青笹にある金田一自工の場所へ次第に工場を移していった。

一方、金田一さんが整備士講習の資格も有していたため、営林署など自動車を扱う職業の人々へも講習を行っていた。そこで奥さんの久子さんも自動車整備士としての資格を取得し、本格的に自動車整備の仕事も担うようになっていた。
これはなんと女性の自動車整備士としては全国で2番目の事例ということもあり周囲を驚かせた。お客さんにも「奥さん、それは油が付いているから触らない方がいいよ!」と言われるなど、最初は整備士だと信じてもらえなかった、と久子さんは話す。

60代半ばまで自動車整備士として勤め上げた後は、現場を離れ整備士講習の講師として遠野近辺の整備士資格を目指す人々への資格指導へと励んだ。当時は盛岡などでしか受けられなかったため、釜石などからも教習生が来ていたと言う。

その後は工場を息子さんに引き継ぎ、第二の人生とも言うべき道を夫婦共に歩むこととなる。

それは、20年にわたる施設などへの慰問をボランティアで回ることだ。
元来のギターやバイオリン、ハーモニカなどの音楽の趣味を生かし、各施設を無料で回った。
当初久子さんは裏方として回り、撮影や準備作業などを行っていたが、ある時、施設のご老人から非常に心の込もったお礼を頂く。
しかしこの時、久子さんは嬉しさとともに「何かもっと自分にもできることはないか」と罪悪感のようなものを抱いていた、と話す。

そして、きっかけは孫を楽しませるための何気ない手品だったと言う。
その手品を見た息子さんが「それを施設慰問で披露したらどうか」と言い出したのだ。
最初はこんな素人芸で本当に喜んでもらえるのか、と不安を持ちながらも、施設慰問で披露した。それが思いがけない反響として返ってきた。施設の職員方からも厚い感謝が送られ、それが金田一夫妻のスタイルとして確立していった。

20年もの間、県内の各施設、温泉、そして震災で被災した方々への施設慰問は続いた。どんな時でも笑顔を絶やさない姿は夫妻が大切に保管している写真や特集された新聞記事に残っている。

20年の節目として最後に行った慰問ではサプライズとして二人の金婚式と共に行われた。はにかみながらも、夫婦二人三脚で行って来た晴れ姿を祝う写真には、この二人だからこそできたことなのだと証明するような周囲の祝福の笑顔が映されていた。

 

 

慰問は終了したが、その後も金田一夫妻の活動は未だ続いている。
それは「街中を歩くこと」である。
日々歩いた歩数や距離を記録し続けている二人はなんと2019年の時点で10年間で16万kmを達している。これは地球の直径を4周近くも歩いた計算になる。

街並みは移り変わり、人の移動も車が主になってしまった市街地は人通りもまばらになっているのが現状である。それでも「街をあるくこと」そして「挨拶をすること」が街を元気にさせるのではないか、と勝太郎さんは語る。