遠野の森林鉄道について~遠野の近現代史の担い手としての国有林~/野木 宏祐

はじめに

新型コロナウイルスの感染拡大防止のために延期していた学習会「遠野の森林鉄道について」が令和2年7月15日と16日に開催され、私が講師をさせていただきました。本稿では学習会で報告した内容を、皆さんにダイジェストでお知らせしたいと思います。

森林鉄道とは木材輸送の専用鉄道で林道の一種です。明治時代後半から昭和40年代にかけて、主に全国の国有林で活躍していました。森林鉄道のレールの幅(軌間)は762mmと狭く国鉄在来線の軌間(1,067mm)の約2/3で、小型の機関車や貨車(豆トロ)を使用していました。

写真1 戦後間もない頃と思われる運行の様子(「群峯」全林野遠野営林署分会.1993)

 

1 森林鉄道の建設について

遠野の森林鉄道の正式名称は「附馬牛林道」で、通称として「附馬牛軌道」と言われていました。昭和4年(1929)度に、当時の附馬牛村の大出と上流の一本椈国有林99林班までの3.9kmが開通したのがその始まりです。

森林鉄道開設の直接的な契機は、附馬牛発電所の取水堰堤が猿ヶ石川上流の中滝~小出間に建設されることにより、河川による流送が物理的に阻害されることになったことでした。もっとも、増大していく木材輸送を不安定な河川での流送に、いつまでも依存することはできなかったでしょうから、取水堰堤の建設がなくても森林鉄道建設は必然であったとは思います。

さらに、遠野に森林鉄道が建設された時期には、昭和恐慌(昭和4年~)への経済対策として時局救済事業(昭和7~8年度)という大規模な公共事業が実施され、遠野においては、国有林の奥地広葉樹資源を森林鉄道で輸送し、当時の上組町(現材木町)に建設した官営製材工場でフローリング等に加工するという一大事業が展開されました。

大規模な経済対策を追い風に、森林鉄道は昭和5年度には大出~中滝間、6年度には中滝~上柳間、10年度には上柳から遠野貯木場間が開通し、15年度には土倉沢上流部、17年度には、ナレヤマ(楢山)沢(=ナラビヤマ沢=楢尾山沢)へと延伸し、総延長は約29kmに達しました。

当時の運行状況として、1列車あたりの貨車(豆トロ)は約10両で積載量は12㎥、遠野貯木場から一本椈国有林の終点までを、片道2時間40分をかけて1日1往復していたことが遠野市史に記録されています。

また、この時代の話として、当時の達曽部村の女性が山椒峠まで山道を登り、ナレヤマ沢かオオビヤマ(大尾山)沢沿いの作業線(機関車が入らない簡易な軌道)をトロッコで下り、森林鉄道の終点からは列車に乗せられて大出にやってきたというエピソードも聞くことができました。

 

2 戦後の展開

終戦後、復員者や外地からの引揚者で地方の人口は増加し、その労働力の吸収先、そして戦後の復興資材の供給源として国有林に求められる役割は大きいものがありました。それは、遠野にあっても同様で、森林鉄道の果たす役割は重要であったと思いますが、昭和23年(1948)9月のアイオン台風により全線に大きな被害を受けて、上大出から遠野貯木場までの24kmは牛馬道(低い規格の林道)に格下げされました。

その後、昭和24年度から26年度にかけて、上大出から上柳までの区間を再建し、上柳には貯木場を設置して、森林鉄道からトラック輸送への中継拠点としました。この貯木場には広葉樹の腐食防止のためのプールも併設されています。

また、上大出から上流については、土倉沢やナレヤマ沢に伸びていた路線が昭和27年度までに牛馬道に格下げされていますが、代わりに昭和29年度までに、猿ヶ石川の上流右岸に、等高線に沿って迂回した線形で猿ヶ石川支線6.1kmが開設され、これにより本支線合わせた延長は約19kmまで回復しました。

栗滝沢を渡った先には製品事業所が設置され、奥地林開発の前線基地は土倉川流域から猿ヶ石川最上流域へと移りました。

この上柳貯木場を起点として上大出を経て猿ヶ石川支線に至る森林鉄道の運行は、一日二往復されていたということです。地域の方からは、森林鉄道に乗って早池峯神社の例祭に行ったことや、角隠しをした花嫁が列車に乗って嫁いでいくのを見たという想い出話を聞くことができます。

しかし、森林鉄道の時代は長くは続きませんでした。自動車道の建設技術とトラックの性能の急速な向上を受けて、林野庁は昭和34(1959)に「国有林林道合理化要領」を定めて、以後新設される林道は原則として自動車道にすることとし、これにより新たに森林鉄道が開設されることは無くなりました。

遠野においても例外ではなく、昭和33年頃には森林鉄道は運行を停止して、本線は昭和35年度までに全線を廃止し、支線については昭和37年度に全線を廃止しました。なお、「特選森林鉄道情景」(西裕之 講談社.2014)によれば、昭和33年以降も残材処理や路線撤去のために残されていた機関車があったようですが、こちらも昭和382月に廃車されたとのことです。

写真2 アイオン台風後の早瀬川軌道橋(1948.9.23)

 

3 今も残る軌道跡や遺構

遠野郷に森林鉄道が存在していたのは、昭和4年(1929)度から昭和37(1962)度までの33年間です。

猿ヶ石川支線が廃止となって、今年で58年になりますが、いまだ市内には、森林鉄道の痕跡を確認することができます。ある区間は生活道となったり農業用水路となったりしているほか、山中に歩道のように路盤が残っている区間もありますし、橋梁の橋台や橋脚は比較的にしっかりと残っており当時を偲ぶことができます。

写真3 
写真3 今も山中に佇む中滝下の橋の橋脚

 

一方、文献記録や図面はあまり多くは残されていません。今回の報告は先行研究者が林道台帳の記録から再現した沿革を基本情報とし、占領期に高い頻度で米軍が撮影していた空中写真の成果を活用して軌道を判読したものです。また、附馬牛町や松崎町の方達の証言によるところも多いですが、森林鉄道の記憶を有する方の高齢化に伴い、今後は、直接的に記憶を聞き取るのは難しくなっていくであろうと思われます。

森林鉄道が廃止になってから、いまだ60年程度しか経ておらず、近現代史の一部であるのに、実態を解明することが困難であることを考えると、今を記録して将来に伝えていくことの重要性を強く感じずにはいられません。

写真4 アイオン台風後の小出集落付近

 

4 さいごに

私が勤務している岩手南部森林管理署遠野支署の前身である岩手大林区署遠野派出所が当時の横田村砂場丁に開庁したのは、明治21(1888)のことです。

以来132年間、遠野小林区署、遠野営林署と組織の改組を経て、当支署は遠野郷の近現代史とともに歩んできました。

柳田国男や佐々木喜善と同時代に、林野の測量、官民境界標の設置、森林鉄道の開設、ヒノキやカラマツの人工造林などの近代的森林経営を展開して、怪異現象が起こる山々から、山男や天狗を追い払ってしまったのは、我々国有林の先達なのかもしれません。しかし、遠野郷の近代化を担ってきた国有林の先達の、確かに存在した歴史と記憶もまた、年月とともに消え去り忘れ去られようとしています。今回は、遠野の森林鉄道について報告させていただきましたが、今ならまだ、数多くの近現代史の記憶を記録しておくことができると思います。それらが「昔あったずもな」と「レジェンド」や「ファンタジー」になってしまう前に、市民が自らの手で記憶を掘り起こし、確たる歴史として残していくことを期待したいと思います。私たちは今、新型コロナウイルスの出現と拡大という、戦後の日本社会が経験したことのない状況に直面していますが、当支署としても、遠野の近現代史を担ってきた地域社会の一員として困難を乗り越え、今後とも地域社会とともに歩んでいきたいと思います。

 

追記

私は任地への赴任という、どちらかというと受け身な形で遠野にやってきて、今年で3年目になりました。多くの方と知り合うこともできて充実した毎日を送っています。一方で転勤族の常として、やがてくる遠野を去る日を意識しない日もありません。それだけに、日々の仕事や暮らしの中で眺める遠野盆地の四季の美しさや優しさ、街並みや集落の佇まいへの郷愁が胸に染みてきます。

持ち時間が限られているという焦燥や、新型コロナウイルス拡大防止のために例年の行事を行えない寂寥もありますが、人や土地との縁を大切にして一日一日を丁寧に過ごしたいと思っています。

(岩手南部森林管理署遠野支署長)

 

 

参考文献

〇「群峯」全林野遠野営林署分会.1993

〇「平成30年遠野文化フォーラム報告書『遠野における森林とその変遷』」沖義裕.遠野文化研究センター2019

〇近代化遺産 国有林森林鉄道全データ 東北編」()日本森林・林業振興会秋田支部・青森支部編 秋田魁新報社.2012

〇「遠野市史」第四巻 遠野市.1976

〇「定本附馬牛村誌」附馬牛村誌編集委員会.1954

〇「特選森林鉄道情景」西裕之 講談社.2014

〇「遠野営林署管内 水害状況写真 昭和23年9月」青森営林局.1948

 

写真1 戦後間もない頃と思われる運行の様子(「群峯」全林野遠野営林署分会.1993)

写真2 アイオン台風後の早瀬川軌道橋(1948.9.23)

写真3 今も山中に佇む中滝下の橋の橋脚

写真4 アイオン台風後の小出集落付近