とおのうた巡り / 及川敏恵
〽金山苦労 三年味噌 四年無えごと
サエ サエ サエ
赤坂下りのどら打ちぁ女房 まだ来てどら打づ
サエ サエ サエ
女はたえして 煙草のんで 笹やぶ三間 焼えだずぁ
サエ サエ サエ
私が初めてふれた遠野のわらべうたは、「金山苦労」という子守り唄だ。遠野市立博物館を見学した際、学芸員の方が紹介してくれたのだった。その優しく美しい響きに、思わず心を奪われた。とりわけ、“サエ サエ サエ”が耳に残り、知らず知らずのうちに口ずさんでしまう。
後に調べてみると、この唄の背景には赤坂山(小友町)をめぐる金山争いの歴史があることを知った。この金山は藩境にあり、かつて盛岡藩と仙台藩の間でいさかいが絶えなかった場所だ。この唄には「三年味噌(時間をかけて仕込む古い味噌)のように、赤坂山のもめごとも長い時間がかかって困ったもんだ、金山は苦労がかかるもんだ、サエ サエ サエ…(失敗したとき、困ったときにいう言葉)」という、庶民の心情が込められているという。
深く考えずに口ずさんでいたが、耳に心地良い優しいメロディとは裏腹に、そういう背景があることに驚いた。うたを入り口に、土地の歴史・風土・暮らしをのぞいていく中で次第に、”うたう”という人間が持つ術そのものにも興味をもった。決して楽ではない現実を前にしながらも、それを唄にしていった人々はどんな人たちだったのだろうかと考えるようになった。
今年8月、遠野文化フォーラムプレイベントとして、シンガーソングライターの寺尾紗穂さんのライブがおこなわれた。遠野文化友の会をはじめとする数団体が共催で実施し、私も企画・運営に携わらせていただいた。ライブでは、遠野や岩手をはじめとする各地のわらべうた、寺尾さんのオリジナル曲を演奏してくださった。私はその中で、寺尾さんが歌ってくださった「千福山」という遠野のわらべ唄がとても印象に残っている。
〽千福山の中の沢で 縞の財布をみぃーつけた みぃーつけた
おっ取り上げて 中を見たれば
黄金の玉が九つ 九つ
一つの玉をば お上にあーげて
八つの長者よと 呼んばれた 呼んばれた
長者どのは 京へ おのぼり
瀬田の唐橋 架けやる 架けやる
瀬田の反り橋ゃ 踏めば鳴るが
大工柄か 木柄か 木柄か大工柄より木柄よりも
手斧と鉋の掛け柄 掛け柄
東北民謡の父といわれる武田忠一郎が採譜した「岩手民謡集」によると、この唄は、日本最古の産金地として知られる岩手県には欠くことのできない祝い唄で、牛若丸を鞍馬山から奥州に案内してきた京都三条の金売吉次の金山経営を祝ってうたわれたものと伝えられている。古い唄のようだ。「一つの玉をば お上にあげて....」というのは、金山経営に対する鉱山税を指したもので、税を納めてもなお「長者様」といわれるほど「黄金」が採れたことから、採抗夫や土地の人の間でうたわれていたという。
一方で、「菊池カメが伝えたこと 遠野わらべ唄(伊丹政太郎 著)」という聞き書きの本には、より百姓目線の解釈がされていた。 この唄は、千福山の沢を歩いていた男が、山師(金売吉次)の落とした財布を拾い長者になる。土地の人々にとっては、山の金は自分たちのもの。なのによそからきた人間が勝手に山の宝を持っていってしまう。おれたちも金の玉を拾いたいなぁ、という百姓の夢をうたった唄だという。口伝であるため、いつからこのような言い伝えがされているか、その背景などの詳細はわからない。だが、ひとつの唄が、それをうたう人の立場によって、またその時々の時代背景によって、その意味が変化していくのは自然なことであると私は感じる。
寺尾さんの声を介した「千福山」は、不思議なひろがりを持つ歌声で、心が和らいでいくような気持ちになった。人を夢心地に誘うような響きが込められていた。
土地の暮らしから生まれたわらべ唄や民謡は、現在では生活や仕事の性質が変わったことで耳にする機会が少なくなった。しかし、こんなにもうたから土地の歴史や風土を学ぶことができ、そこで暮らしてきた人々を知ることができるということが、私には大きな気づきだった。
先日参加したある村の集いでのことだ。お酒がすすみ場が心地よい雰囲気に包まれていく中、唄が始まった。土地に伝わる御祝唄、民謡などが披露されていった。その中にとても良い唄声のおじさんがいた。聞けば、昔、別の場所からお婿さんへその集落へいらした方のようだった。
「こいづぁ、唄があったからなんとかなったんだなぁ。」
と、誰かが言った。さり気なく発せられたその言葉が私の心には残った。今も昔も人はうたう。その営みを紐解いていく中で気づくことはたくさんあると感じる。遠野のうた巡りはこれからも続く。
友の会会員 及川敏恵(to know)