はじめての台湾 │ 連載「つれづれの遠野」vol.1 / 赤坂憲雄

昨年の暮れに、遠野文化友の会の主催する台湾ツアーに参加した。はじめて訪ねた台湾には、心惹かれる出会いが待ち受けていた。

たった五、六人のツアーである。初日の夜であったか、みなで台北市内の夜市に出かけた。珍しい食べ物を見つけると、次々に足を止め、ひたすら食べまくった。飲んべえの女たちは、下戸の男たちの浅ましき姿をあわれみの眼で眺めていた。それにしても、かき氷のなんともチープであったことは感動的ですらあった。まあ、注文する方が間違っている。それでも、なかなかにお腹は強靭で、最後までへこたれることはなかった。

参加者はみな、自立精神に満ちて、それぞれに旅の目的を抱え込んでいた。後半には、ばらけて自由行動となり、わたしは台南に向かった。わたしの今回の台湾の旅は、東北にゆかりの深い二人の男の足跡に触れることだった。

ひとりは、言わずと知れた伊能嘉矩である。その『台湾文化志』の台湾語訳の廉価版が、三冊で六千円程度の値段で、街の本屋の棚に平積みにされていた。驚きだった。日本語版は古書店で探すと、五、六万円のはずで、なかなか手に入れることができない。日本では伊能嘉矩という名前を知る人は少なく、きっと知る人を探す方がむずかしい。ところが、台湾では台湾研究の基本となるバイブルのような本として、『台湾文化志』はいまに読み継がれているのだ。

いまひとりは、会津若松出身の西川満である。戦前の台湾において、さまざまな文化や芸術の振興にかかわり、いまに繋がる基礎をつくった人として知られている。とりわけ、台湾の出版文化はこの人抜きには語ることができないと聞いた。その足跡に触れ、思い出を涙ながらに語ってくれる人たちに出会い、不思議な思いに打たれた。かれらの西川満への敬愛は、わたしの予想をはるかに超えていた。そして、ひるがえって、日本ではこの人の名前を知る人は、たぶん伊能嘉矩よりもはるかに少ない。故郷の会津においてすら、まったく忘れられた存在なのである。

今年は戊辰戦争から百五十年であった。わたしはじつは、伊能嘉矩と西川満、かれらが戊辰戦争の敗者となった奥羽越列藩同盟の藩士の末裔であることに、深い関心をいだいてきた。なぜ、かれらは植民地の台湾に渡ったのか。なぜ、台湾の文化振興のために力を尽くし、それゆえにいまも敬愛を寄せられているのか。はじめての台湾の旅は、それらの問いを引き受けなおす、大切なきっかけを与えてくれた。

遠野文化研究センター所長 赤坂 憲雄