沢里武治と宮沢賢治⑴ ザシキワラシに導かれて/遠野文化研究センター 研究員 菊池弥生

遠野文化研究センターの研究員に任命され、遠野らしく且つ自分らしい研究テーマを模索している頃だった。ザシキワラシに関する市民講座が目に留まった。かつてザシキワラシは没落の予兆として恐れられていたが、最近では会えたら幸運、あるいはご利益があるという逆転現象が起こっている。
もしかしたら、あの日、私にも不思議なザシキワラシが現れた、と思っている。

佐々木喜善「遠野市立博物館蔵」

 20139月末、「ザシキワラシ発見 佐々木喜善と宮沢賢治の出会い」と題する遠野文化研究センター講座が開催された。講師によると、喜善と賢治との出会いは、ザシキワラシを研究していた喜善が賢治の発表した「ざしき童子のはなし」を自著で紹介したいという手紙を送ったことがきっかけである。賢治から返事が届き、遠野の喜善は、花巻の賢治の家を訪問するようになる。当時の賢治は病床に伏していたが、喜善と面会をして親交を深めたことなどが説明された。

 

教え子の澤里武治に贈った「大正十五年三月二十日 宮沢賢治」と署名のある写真「遠野市立博物館蔵」

 佐々木喜善(18861933)は『遠野物語』の話者であり、宮沢賢治(18961933)は花巻の詩人・童話作家である。
不勉強なことに、喜善と賢治には全く接点がないと思い込んでいた。ところが、喜善が生まれたのは賢治が生まれる10年前、喜善が亡くなったのは賢治の死から8日後であり、二人は同郷人として、同時代に活躍していたのである。つまり、岩手が生んだ偉大な文学者たちは、すぐ隣の村と町で生まれ育ち、同じ時間と空間を共有しながら文学の道を志していたのだ。ザシキワラシが喜善と賢治を結び付けていたという話を聞き、これまで以上に賢治の存在が身近に感じられた。

 

 

沢里武治「遠野市立博物館蔵」

講座に引き続き、遠野市立博物館で開催中の「佐々木喜善と宮沢賢治」の特別展のガイドツアーに参加した。展示室の最後には、賢治ゆかりの遠野の人物というコーナーがあり、喜善以外として、賢治の愛弟子が紹介されていた。
その人の名前は沢里武治(19101990)。いつかどこかで聞き憶えのある名前だった。略歴を見ると、「1970(昭和45)年、上郷中学校長を最後に退職した」と書かれている。写真の柔和な老紳士は、50年前の厳格な面影は失せていたが、私が卒業した上郷中学校の沢里武治校長先生に間違いない。沢里校長先生が賢治の教え子だったとは、初耳であり驚きであった。しかし、裏返せば、私自身も間接的ではあるが、賢治とほんの少しだがつながりが生じることになり、とても嬉しく誇らしい気分になった。

 

沢里武治あて宮沢賢治書簡 「宮守 道の駅 mm1」

 一方、ガイドツアー担当の学芸員は、参加者たちに次のように解説していた。「これは賢治が沢里に送った手紙です。『風野又三郎』という作品を執筆中のため、二三篇取材をしたいこと、学校や子どもらの空気にふれたいと書かれています。当時の沢里は上郷小学校の教員でしたから、賢治は上郷小学校を訪問したと考えられます」という内容であった。上郷小学校は、何と私の卒業した小学校である。私の母校が賢治の代表作『風の又三郎』の学校の舞台の一つといわれているらしい。これは本当か。何故私はこんな大切なことを知らなかったのだろうか。

 この日、ザシキワラシの講座に参加したことにより、賢治と喜善は親交があったこと、賢治は沢里の恩師であったこと、そして、沢里は私の上郷中学校の校長先生だったことがわかった。更に、上郷小学校が『風の又三郎』のモデル校の一つということにも衝撃を受けた。そういえば、『風の又三郎』の主人公の高田三郎は転校生であり、二百十日に分教場に出現したザシキワラシという捉え方もできると、何かの本で読んだ記憶が蘇った。あの時、私はザシキワラシに導かれたかのように、長い間探していた研究テーマを「沢里武治と宮沢賢治」に決めた。現在は、沢里にスポットを当てながら、賢治の作品と遠野に関する調査・研究を行い、年に一回ほど、その研究成果を発表している。

 

2020210日)