はじめての遠野の旅 │ 連載「つれづれの遠野」vol.3 / 赤坂憲雄

はじめて遠野を訪ねたのは、三十代なかば、一九八八年頃ではなかったか。『創造の世界』という雑誌に場を与えられて、柳田国男論の連載を始めたとき、編集者が提示した条件はたったひとつ、「柳田にかかわる土地を旅して、それを連載に盛り込んでほしい」ということだった。思えば、そのさり気ない導きがなければ、わたしは書斎派のライターとして生きることになったのかもしれない。物書きとしてデヴューして数年だった。老練な編集者の前芝さんは、頭でっかちのわたしの背中を、「広い世間を見ておいで」とやさしく押してくれたのではなかったか。

そして、わたしが最初の取材場所として選んだのが、まさに遠野だったのだ。むろん、『遠野物語』の舞台を歩き、見て、感じるための旅であった。聞くとか、調査することは、そもそも旅の目的には含まれていなかった。なぜならば、わたしはいまだ、民俗学者ではなかったからだ。いや、わたしはいまも、民俗学者という名乗りには居心地悪いものを感じている。民俗学者になるための訓練など、まるで受けたことがない。あえて言っておけば、わたしは定本柳田国男集を読みながら、いつしか民俗学者へと誘われてきたのだった。所詮、素人の域を出ない民俗学者にすぎない。

はじめての遠野の旅は、小さな発見に満ちていた。たとえば、姥捨て伝説の舞台である山口のデンデラ野が、集落の背後にある丘のうえの草原であることに、奇妙な衝撃を受けた。すくなくとも、それは深沢七郎の『楢山節考』の姥捨ての地が、七つの谷と七つの山を越えてようやくたどり着ける奥山であるのと比べれば、ほとんど異様に日常的世界に近接している。そして、そこに老人を捨てる集落として、十いくつかの具体的な地名が挙げられていた。姥捨てとはなにか、という問いの前に呆然と立ち尽くさざるをえなかった。

文庫本の『遠野物語』を携え、徒歩や自転車で、雨の日にはタクシーで、あちこち歩きまわった。河童の伝説がある川のほとりで、夢中でシャッターを押していると、うしろから、「こんなとこで、河童なんて出るはずねえな」とタクシーの運転手が呟いた。早池峰神社の境内で雨宿りをしていると、若い女性に声をかけられた。のちに親しくなる宮司さんであった。

まちがいなく楽しい旅だった。しかし、遠野駅から列車に乗り込み、しだいに遠野の風景が遠ざかっていったとき、わたしは小さな確信とともに、二度と遠野を訪れることはないだろう、と思った。その遠野があらためて、くっきりと浮き彫りになる瞬間があった。東京の書斎の机に向かって、五万分の一地図を広げ、遠野紀行を書きはじめたときだった。もう一度か二度、訪ねることになるかもしれない、と思った。

あれから、三十年あまりが過ぎた。いったい、何度、遠野を訪れたことか。もはや数えきれない。しかし、遠野はいまなお色褪せず、新鮮さを失うことはない。なぜか。あらためて、遠野の記憶を掘り起こしてみたくなった。この連載のなかで、つれづれに書き継いでいきたいと思う。