疫病と妖怪、そして映像:見えないものへの想像力/新井 卓 

連日連夜、新型コロナウイルス関連のニュースが飛び込んでくる。中国に始まってイタリア、スペイン、アメリカやそのほかの国々の悲惨な状況に、当地の友人たちの消息が心配で仕方ない。会いに行きたくても国境は封鎖され、見舞いを送りたくても国際郵便は停止している。こんなとき、メール、無料の通話サービスやヴィデオ・チャットのありがたさが身にしみる──目にみえないウイルスと闘っているらしいわたしたちは、インターネットを行き交う目にみえない電子のたわむれにすがって、かろうじて心の均衡を保っているのだろうか。

もっとも「目にみえないもの」とわたしたちのつきあいは、今に始まったことではない。福島第一原発から漏れつづける放射能はもとより、水俣病や奈良の大仏建立当時の水銀汚染など、日本に暮らす人々は数え切れない「目にみえないもの」の脅威にさらされながら生きてきた。「目にみえないもの」たちの歴史を振り返ると、それらがもたらす漠然とした不安は、常に人々の分断を生んできたことに気づかされる。肉眼ではとらえられない細菌やウイルスが発見され、それらが様々な病気の原因になることが分かったのはわずか百数十年前。それ以前、病気とは因果応報、前世の罪業の障りと考えられることもしばしばであった。とくに江戸時代、天刑(てんけい)病と呼ばれたハンセン病患者に対する差別の歴史は長い。彼/彼女たちへの人権侵害を国が認めたのは、日本ではようやく2019年になってからである。いま、コロナ渦の世界で分断の歴史は繰り返されていないだろうか。その懸念が形になりつつあることを、残念ながら時々のニュースで知る日々がつづく。

そんな折、巷で「アマビエ」という妖怪のイラストを見かけるようになった。姿を写して人に見せればたちどころに疫病がおさまる、と伝えられる半人半魚の「アマビエ」は江戸時代の「ゆるキャラ」よろしく、なんだか頼りなさげである。わたしなどは初めて目にしたとき、思わず半笑いで、なんだよこれ……と脱力してしまった。しかし、もしかするとそれこそが、マスクに消毒に、はりつめがちな気分を緩めてくれる「アマビエ」の真の効能なのかもしれない。

写真家・民俗学者の内藤正敏さんによれば、遠野あたりで狐に化かされると決まって「ご馳走」が盗まれるのだという。「ご馳走」とは焼魚や卵焼きなど、つまり貴重なタンパク源のことである。ご馳走をなくした人は家に帰って、きっと家族にこう言うだろう──せっかくの土産が憎らしい狐めに盗られてしまった……。その人はきっと、道中腹が減って仕方なく、土産に手をつけてしまったのだろう。ごく最近まで飢饉に苦しめられた東北の風土を考えれば、そう考えるのは自然ではないか。家族にしても事情をうすうす察知しているに違いなく、それでも、狐に化かされたならば仕方ない、とやわらかく受け流すのだろう。妖怪とはこのように人間の恥ずかしさや苦しさ、矛盾を引き受け、人々を分断から救い、関係を取り持ってくれる存在なのではないか──私にはそんな気がしてならない。

話は変わるが、わたしはいま、次なる遠野の映画を構想している。どんな話かというと、主人公は国籍も世代も境遇も違う二人の女性で、人生の危機に直面している。二人はふとしたきっかけで遠野へ流れ着き、偶然に出会う。それぞれの事情で傷ついた彼女たちを癒やすのは「目にみえない」妖怪たち、そして半分妖怪になりかかった(ようにみえる)実在する遠野の人々との交流である。おかしな話ではあるが、映像と「目にみえないもの」たちの相性はとてもよい。写真や映画が最先端のテクノロジーだった19世紀、人々はその先端技術が、目にみえない霊魂や精霊を写しとる力があると信じていた。デジタル化の波で少々薄らいだとはいえ、その心はいまだ完全には失われていないはずだ。

子どものころ、21世紀のイメージは空飛ぶ車が行き交いロボットが闊歩する超未来都市の世界だった。ところが現実にはどうか?わたしたちはいまだ疫病に悩まされ、ささやかな心の救いを妖怪たちに求めているではないか。SF作家のアーサー・C・クラークはエッセイ集『未来のプロフィル』(1966年)で「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と書いた。どうやらわたしたちの21世紀は、スマートフォンやインターネットといった「魔法のような」科学技術と、妖怪や占いにパワースポットといった昔なじみの魔法が同居する時代のようだ。その証拠に、わたしが定宿にしている駅前の「おとぎ屋」には、主人が配信するウェブサイトに誘われて、座敷わらし探訪の旅人たちがひきもきらずやってくる。

「目にみえないもの」への想像力はいま、科学と魔術の果てしない隔たりをこえて、いっそう必要とされている。その想像力は人間以外の生命への想像力であり、困難な状況においてなお分断を乗り越え、人々をつなぎとめるための想像力にほかならない。だから、遠野から発信される映画には驚くような可能性が秘められている、わたしはそう信じている。もっとも遠野の人々にとってそんな想像力など、あたりまえの話かもしれない。岩手がいまだ新型コロナウイルスの侵入を許さないのも、もしかすると遠野人の想像力に支えられ「アマビエ」たちががんばっているから──そんな気がしなくもない。


新井卓(あらいたかし)

1978年川崎市生まれ、アーティスト、映画作家、遠野文化研究センター研究員。2016年に福島、広島、長崎、アメリカの核の遺物を巡る写真集『MONUMENTS』で第41回木村伊兵衛写真賞、2018年には『遠野物語』のオシラ様伝説から着想した映像詩『オシラ鏡』で第72回サレルノ国際映画祭短編映画部門最高賞を受賞した。